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Posted by つくばちゃんねるブログ at

2013年11月18日

ご紹介

牛久沼の自然環境を守る会 2004-2008
~農業用プラスチックをはじめとする不法投棄・焼却の撲滅を目指して~


                       代表 中島迂生
                         (なかじま うせい)
                       2013年11月記.

 
上:夏の牛久沼。こんなに美しい所なのです。
・・・ゴミさえなければ。


上:冬枯れの葦は乾いた金色、丸まった穂先が美しいアラベスクを描く。

 
上:岸辺には絵のような農村風景。

●ご紹介

この会は、実質2004年から2008年まで、会長の中島迂生がひとりでやっていた会です。
さいしょ、あまりにひどい不法投棄の実態にショックを受けたことにはじまり、独自の調査や情報収集を重ねては、行政に訴えてまわっていました。
活動の後半では、自ら野外に出て集積作業にあたり、黒焦げになった農プラの塊を掘り起こしたり、沼地から引き上げたりして、最終的には累計2トンあまりの投棄ゴミを撤去することに成功しました。
記録を残す意味でここにご紹介します。

活動範囲は牛久沼流域、とくに東谷田川と西谷田川にはさまれた半島部分、茎崎橋からぐるりとまわって上岩崎橋にいたるエリアの河川敷。距離にしておよそ12~13キロ。

 
上:私がさいしょにショックを受けた、2004年冬の状況。
あまりに醜悪で、見ているとノイローゼになりそうでした。

●農業用廃プラスチックの不法投棄・焼却の問題

このエリアには各種の雑多なゴミが投棄されてきましたが、当時とりわけ私が問題と考えたのは、使用済農業用プラスチック(農プラ)ごみでした。
農プラとは、畑で作物を育てるのに使う、ビニールハウス、マルチ、トンネルなどの総称で、成分は塩化ビニールやポリエチレンが主です。

これらは毎年新しく張り替える必要があるのですが、その使用済のものがしばしば河川敷に投棄されていたのです。一単位が大きく、習慣的に投棄されると相当な量になります。
そして、故意に焼却されることもあれば、毎年行なわれる野焼きの際にいっしょに燃やされてしまうこともあります。このエリアでは、虫害を防ぐ目的で昔から、毎年冬に河川敷全体の野焼きを行なうためです。

しかし、塩化ビニールを焼却するとダイオキシンを発生することが問題となって久しいですし、ポリエチレンでも出るそうです。そのため、こうした状況が放置されているのは問題であると考えられました。

2004年前後、野焼きの現場は真っ黒い煙が一面に立ちこめ、まるで戦争の爆撃の写真のようでした。野焼きのあとの河川敷はたいへん醜悪な様相で、黒焦げになった農プラの塊が大量に散乱していました。

こうした状況を目の当たりにして、市役所をはじめ、各方面へ改善を訴えはじめました。
しかし、その過程で、こうした状況のかげには色々な組織のさまざまな事情が複雑に絡みあっていることが分かってきました。

 
上:使用済農プラ類を野外に投棄せず、決められた日に集積所へもっていくよう呼びかけた啓蒙チラシ。行政の配布。

●諸事情

まず、農家の方々への負担という問題。
使用済農プラの野外への投棄・焼却は本来禁止されており、集積所へ持っていくように定められています。そして、大方の方はきちんと持っていかれています。

しかし、回収の受付が年に数回と限られているうえ、規程どおりに縛って持っていき、さらに手数料を払わなくてはなりません。農家の方にとってこれは大きな負担です。可能な限り、回収に協力していただきやすい体制づくりが望まれました。

次に、管轄の問題。
このエリアはつくば市だけでなく、流域部分だけ飛び地で、龍ヶ崎市の管轄なのです。それに加えてほかの色々な組織や委員会が絡んでいます。そのため、責任の所在がはっきりせず、問題がたらい回しされる傾向がありました。

また、基本的には土地の持ち主(個人)の責任であるという指摘もありました。しかし、多くは持ち主本人が捨てているのではなく、むしろ捨てられて困っているというのが現状でした。

さらによく言われたのが、合併してからゴミがひどくなったとのこと。
以前は年に何度か河川敷の一斉清掃の日があって、住民が総出であたっていました。ところが、このエリアがつくば市となってから、それがなくなってしまいました。

また、以前は、不法投棄がある旨役場に連絡すると、ゴミ対策課(略称ゴミ対)の職員の方が出向いて撤去してくださったそうです。
ところが、合併以後、つくば市全域が受け持ち区域になったため、忙しくてゴミの撤去に来られなくなってしまったそうです。

こうして、投棄ゴミの多くが放置されたまま、野焼きじたいは相変わらず毎年行なわれている、という状況がありました。

野焼きは各エリアの自治体の主宰で、多く住民総出で行なわれていました。
地元の消防団が出てはいますが、その目的は河川敷からほかへ火がもれて火事にならないようにというだけで、プラスチックゴミが燃えていても消し止めないで見ているだけなのです。

地元の方のなかには、ゴミがひどいから、野焼きのときについでに燃やしてしまうのだという意識の方もいらっしゃるようでした。
こうした状況は、消防署も警察も、十分には把握していないようでした。


上:建築資材など雑多な投棄ゴミのひどかった大三機場周辺。


上:投棄されていたのを引き上げた粗大ゴミなど。ものすごく大変だった。ほんと死ぬかと思った。

●2006年までの経緯

こうした状況を訴えた結果、2004年春からは、つくば市の農業課があらためて農プラの投棄・焼却を禁じた啓蒙チラシ、および回収日時等の通知を近隣農家に配布、周知の徹底をはかってくださいました。
その結果、回収量は以前よりも増加。

2004年秋には、雑多な投棄ゴミのひどかった第三機場周辺にて、龍ヶ崎市企画調整課の主宰だったと思いますが、龍ヶ崎市・つくば市・土地改良区が合同でゴミの撤去作業のうえ、柵を設置。投棄禁止の立て看板もあらたに数ヶ所に立てられました。

しかし、エリア全域の撤去にはなかなか至らず。
情報を求めるうち、2005年夏、「こちらでゴミを集積してゴミ対策課に連絡すれば、車を出して回収していただけるらしい」と知り、さっそくつくば市ゴミ対策課へ問い合わせました。
だが、このときはよい返事をいただけず。

2006年春、こうなったら自分で運ぶしかないと、投棄された農プラ塊を市指定のゴミ袋に詰めて、自転車でひとつずつ、地区の集積所へ運ぶ試みを始めました。
すると問題なく収集車に回収してもらえはしましたが、あまりに効率悪く、いったん挫折。

2006年夏には、この問題が龍ヶ崎市議会で取り上げられました。
しかし、あまり実質的な進展は得られず。

 
上:投棄ゴミを市指定の袋に詰め、こんな感じで集積しては、市役所にFAXを送り、車を出して収集してもらっていた。

●2007年冬からの活動

粘りづよく交渉にあたったものの、実質的な撤去作業を行政に求めるのは難しいことが分かり、自分で野外に出てゴミを集積、その後回収に来ていただくやり方を始めました。

2007年1月、このままでは埒があかないと悩んだ末、ゲリラ作戦をとることを決意。
まずゴミを集積してしまってから、その後ゴミ対策課に連絡して回収を頼みこむという手に出ました。

それからその年の野焼きの日まで、出られる日は毎日出て集積作業にあたり、結果として2007年1月から2月にかけて、ゴミ対策課には5回ほど出動していただき、農プラ等投棄ゴミ40リットル入りゴミ袋計170袋分に加え、相当量の粗大ゴミ、家電ゴミ、建築資材系ゴミ等を回収していただくことができました。
ゴミ対策課の職員の方々にはたいへんお世話になりました。

また、それとは別に、2007年2月、行政との合同作業にて総計1.5トンほどの投棄ゴミを撤去。

2008年冬にも同じくひとりで集積作業を重ね、このときは野焼き前に40リットル入りゴミ袋約100袋分を回収・撤去。

このエリアでの作業は、正直ゴミを「拾う」というようなかわいいものではありません。
半分泥にうまった黒こげの農プラ塊を掘り起こす、絡みあった葦のあいだから引きずり出す、沼地の水の中から引き上げるといった重労働で、しかも各エリア、野焼き予定日の前までという時間的制約が。
やってもやってもきりがなく、冗談でなく疲れ死にするかと思いました。

そうして集積したゴミをゴミ袋にまとめて並べ、その場所を地図に記したFAXを市役所に送っては、収集車を出していただいていました。


上:2008年4月のアースデーつくば環境展に参加。

  
上:2008年8月、龍ヶ崎市の環境展<ELPフェア>に参加。

●プレゼン活動

・2007年9月1-2日 環境フェア<ELPフェア2nd>にて展示・プレゼン(龍ヶ崎市)
・2008年4月 <アースデーつくば>環境展にてパネル展示(つくば市)
・2008年8月21-26日 <ELPフェア3rd>にて展示・プレゼン(龍ヶ崎市)
・ほか、各所にチラシを置かせていただき周知につとめる

  
上:2006年にしばらく滞在した英国で、美しく保たれた自然環境に触れ、同時にそれを守り抜くためになされてきた戦いについて学んだことは、絶望から立ち上がる力となりました。
同じ空と海でつながっているのだから、私はこの土地に対して責任がある!と。

●展望

切実に提言していたのは、もう、時代に逆行する都市開発や、予算消化工事みたいのはやめて、代わりに緊急課題である不法投棄ゴミの撤去をはじめとする環境保全事業を公共事業としてやろう! ということ。
こんなに重大な問題がボランティア任せでは限界があるし、社会のあり方としてあまりに歪んでいると。

この頃、ちょうどTXの沿線開発が盛んになされていた頃で、行政の偏りを痛切に感じていました。
それよりもまず、ゴミ対策課の人員をもっと増やし、あるいは事業として撤去作業を発注するなりして、もとからあるこの環境の保全につとめるべきではないかと。

また、最終的に目指すべきは、単に不法投棄の撲滅だけでなく、健全な河岸線のあり方を復活してゆくことでしょう。
私は子供の頃から、この周辺エリアで無思慮な開発によって自然林が焼き払われ、景観の調和が台無しにされてゆくのをなすすべもなく見てきたのです。

土地の景観は人々の心の反映ですから、ます社会全体の共通認識として、環境保全についての健全な感覚を育てていくことが必要なのでしょう。

 

中島迂生のこの運動は、2008年夏にいたり、それまででひととおりの結果を出せたこと、また、仕事でご一緒した、環境保護運動にも関わっていた尊敬する方々から「環境問題についてはすでに認識が浸透したから、もういいのではないか」という声をいただいたことなどからいちおう終息しました。

つくば市ゴミ対策課・龍ヶ崎市企画調整課・土地改良区の方々をはじめ、ご協力いただいた皆さますべてに心から感謝申し上げます。

この後、中島迂生はつくばセントパトリックス・フェスの企画、また劇団バリリー座の主宰にあたることになります。

この運動についてはこれまでウェブ上に全く載せていなかったので気にかかっていたのですが、今回、部屋の片づけをしてこの運動関連の書類も整理したのを機に、ここに記録としてまとめました。

現場の写真をおさめたアルバム、行政とやり取りした文書資料、集積作業のもようをしるした日記などを以下に公開しています。
https://picasaweb.google.com/107799758412385197472/20042008#

   


Posted by 中島迂生 at 23:27Comments(1)